モノの価値 ― 2007年06月13日 11時33分54秒
昨日会っていた人と話した事の一つに、モノの価値という内容のものがありました。最近タダのモノが増えてきているという話からモノの価値という話になったんです。
例えば、タダで出来るコピー。コピー紙の裏面に広告があらかじめ印刷してある事が前提でコピーをタダにするというサービスがありますよね。他にも、タダで飲める清涼飲料水。紙カップにコーヒーを注いでいる間ディスプレイにCMの動画を流す事で、出てくるコーヒーをタダにするというサービス。
こういったサービスについて、僕は、その着眼点や工夫といったものはとても素晴らしいと思います。けれどその反面、なんだかとても嫌な感じもするんです。
自分では出来ない事を、お金を払う事で誰かにやってもらうのがサービスというものですよね。例えば、Excelのマクロを使って30分もあれば作れてしまう様な簡単な計算プログラムを、「自分には作れないから是非作ってもらえないだろうか」と言われる事がしばしばあります。そんな時僕が「30分程度で作れてしまうものだし、ある意味気晴らしにもなるからタダでいいよ」と言っても、「それでは申し訳ないからちゃんとお金を払わせてくれ」と言われたりします。
何が言いたいかというと、何らかのサービスを享受したならば、それに相応しい対価を支払うべきだという原則の様なものがあるということです。人に何かやってもらった時、それに見合う何かをしなかったら、自分が誰かに何かをしてあげても何ももらえないことになるという事ですね。
確かに、タダで出来るコピーや、タダで飲める清涼飲料水には、お金という絶対的な対価を支払うのではなく、広告を見るという本来やらなくていい事をやる事が支払われるべき対価になっています。でも、実際にはどうでしょう。本当にきちんと見る人がどれだけいるんでしょう。それでもちゃんと広告効果がある(きちんと見る人がいる)からこうしたサービスが成り立つから問題はないと言えるのですが、僕が不安なのはそういう事ではないんです。
問題なのは、広告を見ること対価として商品を無料にするサービスを利用するとき、広告を見なかった(対価を払わなかった)人がどう思うかということです。おそらく「自分が見なくても誰かがちゃんと見て、必要な人は買うんだからいいじゃん」という様な事を思うんじゃないでしょうか。僕だったらそう思いますから。
この、「自分が見なくても誰かが見る」という意識が怖いと思うんです。これはすなわち、「自分が払わなくても誰かが払う」という意識に繋がります。これって・・・。万引きする人や、誰かから何かを奪う人の意識に繋がっている様な気がするのは僕だけでしょうか。
もしかすると、対価を正しく要求することは、サービスを提供する側にも責任のある事なのかもしれません。
「タダほど高いモノはない」という諺を、もしかすると僕たちは今、忘れ初めているのかもしれません。何でも無料にするサービスが悪いとは言わないけれど、それで僕たちは何を失うのかをしっかりと考える事は大切な事だと思うんです。
コメント
_ kuroco ― 2007年06月14日 21時46分11秒
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何が言いたいかというと、何らかのサービスを享受したならば、それに相応しい対価を支払うべきだという原則の様なものがあるということです(ハガレンじゃありませんが・・・(^^;)。
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何が言いたいかというと、何らかのサービスを享受したならば、それに相応しい対価を支払うべきだという原則の様なものがあるということです。